ことばの暴力って最近聞くようになったフレーズで、むかしはそんなになかったような気がする。
現代社会は昔より陰険になってきたような気がする。肉体的な暴力はもちろんだめなわけだが、ことばの暴力は案外自分でも知らぬ間にみんなやっているのかもしれない。
ことばというものは本当に痛い。いやなことばを浴びると本当に心が痛くなり、そのうち体の調子までおかしくなってしまうものだ。
現に私は会社のストレスチェックで「高ストレス」と判定され、さらに健康診断で胃に異常が出てしまった。毎日ストレスのかかることばを浴びたおかげで体がおかしくなってしまったようだ。
たぶん仲のいい友だちに毎日「死ね」と言われたら、私は本当に死ぬと思う。
それがことばというものだ。
さて、ことばの暴力とはちょっとちがうのだけど、ことばが痛いという点で、こんな和歌がある。
人言を繁み言痛み己が世にいまだ渡らぬ朝川渡る
(万葉集巻一 116番歌)
「人言」というのは人のことば、ここでは噂。
「繁み」は葉が茂るように、多い状態を表す。
「言痛み」は「こちたみ」と読み、ことばが痛いという意味でよいだろう。たいてい「うるさい」と訳されている。
ちなみに「人言を繁み」というふうに「~を・・・み」で挟むと「~が・・・ので」という意味になるので、ここは「人のことばが多いので」つまり「噂が多いので」と解釈できる。
次の「言痛み」も「ことばが痛いので」(国語的には「うるさいので」)と訳せる。
つづいて
「己が世に」は「いままで生きていた世界で」という意味で簡単にいうと「これまで」。
「未だ渡らぬ」は「まだ渡ったことのない」。
「朝川渡る」は「夜明けの川を渡る」。
全体的には、
人の噂が多いので、いままで渡ったことのない夜明けの川を渡って帰ります。
となる。
詳しい背景は省略するが、愛する男女が夜に密会していて、朝方、人に知られないようにこそこそと帰っていくという場面だ。
なぜならば、人の噂になるのを避けるためだ。人は本当に噂好きで、それがやがて大きくなり、あることないこと言われてしまうこともある。
人の噂はこわいものだ。
さて、ここで「言痛み(こちたみ)」を使っているのは、やっぱり人のことばが心に突き刺さって痛くなるからだろうと思う。そういう心の状態がよくあらわれた和歌である。
ちなみに、この和歌は万葉集の名歌と言われているもの。本来ならばその歴史的背景を学んでしっかり鑑賞し、ここにも記すべきだ。
初めて大学の授業でこの和歌を知り、いい歌だなぁと思ったし、もっと万葉集を学びたいなぁと思った。
ただ、私はそれ以上に、この「言痛み」ということばが心に残ってしまった。
(正確には「言痛み」は「言痛し」という形容詞)
私はむかしから、人のことばが気になってしかたなかった。
他人が自分をどのように思っているのか、どのように評価しているのかがとても気になる人間だった。
ちょっとでも私のほうに視線を向けて話している人がいると、自分の悪口を言っているのではないかと気になったりもしたものだ。
ことばに対してもっと鈍感だったらよかったんだけど、全然そんなことなく、すぐに自分に向けられた視線に反応してしまう。
ましてや批判や悪口などされようものなら最悪だ。言われた途端、ずーっと引きずってしまう。
小学生の頃、兄に「お前はネクラだよ」と言われたことも
妹に「マザコン」と言われたことも
父に「お前はオレにみたいに頭よくないんだな」と言われたことも
みんな引きずる。
学生の頃、友だちに「みっちーって全然ウケないよね」と言われたことも
会社の上司に「おまえはおれのお荷物だよ」と言われたことも
社長に「おまえなんか地獄に落ちればいい」と言われたことも
ずっと忘れられなかった。
忘れられないって、ほんと疲れる性格だ。
すぐに忘れられる人だったらよかったんだけどね。
こんな性格だから、人一倍、人のことばに痛みを感じる。
だからこそ、「言痛み」という単語が私にとって特別忘れらないものなのかもしれない。
昨今、SNSのせいで、人のことばに傷つく人が非常に多い。
芸能人の方も誹謗中傷を浴びせられる人が多い。
そのせいで亡くなってしまったかたもいる。
人のことばは痛いのだ。本当に痛い。耐えられないくらい痛い。
ことばに対して敏感な人がいるということをわかってほしい。
そんな私は、いまだに人のことばが怖くてたまらない。