高校生の頃、恋愛について一生懸命考えていた時期があった。
「愛するってどういうことなのか」とか「恋愛と結婚は別なのか」とか、または「恋と愛のちがいは何なのか」とか。
いろいろ考えるのが青春時代ってやつかもしれないが、恋愛に関してはとにかくたくさん考えた気がする。
そんなある日、芥川龍之介のこの本に出会う。
この中に入っている「侏儒の言葉」を何回も読み直した。
「侏儒の言葉」は、短い言葉を集めたいわゆる「箴言集」というやつで、短文の中に、深く考えさせられることも多い。
私を深く考えさせたのは次のことば。
恋愛
恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに値しない。
初めて私がこの文章を目にしたのが高校一年生のときだった。そして、これは私にとって、とても衝撃的な文章であった。
芥川龍之介について
芥川龍之介といえば、日本人ならほぼすべての人が知っていると言っていいほどの有名人。
生まれは1982年(明治25年)で、亡くなったのが1927年(昭和2年)。35歳の若さで亡くなったわけだが、これは自殺だった。
この頃の作家さんって自殺が多いよねと思っちゃう。
短編小説が有名で「蜘蛛の糸」などは小学生のときに読んだ気がする。道徳の授業で使えそうな作品だ。
他に「鼻」・「羅生門」・「杜子春」・「藪の中」など有名な作品が多数ある。「今昔物語」や「宇治拾遺物語」などの説話から構想を得た作品が多いことも有名。
「侏儒の言葉」は1923年(大正12年)から1927年(昭和2年)にかけて書かれたもので、芥川龍之介の最晩年の作品。
ちなみに「侏儒」というのは小人という意味らしいので、この作品は、芥川が自分のことを「小人の言葉」と卑下して言ったのかなぁ。
(ちがっていたらごめんなさい)
「恋愛は性慾の・・・」について
高校生のときの衝撃
さて、問題のことばをもう一度引用。
恋愛
恋愛はただ性慾の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性慾は恋愛と呼ぶに値しない。
簡単に言うと
恋愛=性欲
ということだ。
高校生の頃の私にとって、これは衝撃的だった。恋愛小説が好きだったし、恋愛にロマンを持っていた頃だったからだ。
心と体は別なんだよ、ってずっと思っていた。なんならプラトニック・ラブは至高だとも思っていたかもしれない。
ここから私にとって、愛とか恋愛が人生のテーマになっていく。
(と言ったらちょっと大げさだけど・・・)
恋と愛のちがいとか、けっこう考えたものだ。
恋と愛について
いま、なんとなく思っているのは
愛は相手中心
恋は自分中心、つまり利己的
かなぁってこと。
愛は異性だけでなく、家族や仲間にも使うが、その根底には相手のことを思いやる気持ちがある。
(もちろん同性に恋愛をする人もいるが、今回は私基準で述べていきたい)
しかし、恋はあくまでも自分が相手のことを欲する気持ちだ。相手のことを思いドキドキし、会いたくなり、または嫉妬もする。それは、あくまでも自分中心で自分が主体だ。
たまに、人は恋のために狂ってしまうのだが、それも相手よりも自分のことを中心に考えてしまうからだ。
そして「恋愛」は、愛の中でも恋の要素を取り込んだ言葉ってことだ。自分が相手を欲する気持ちがかなり強い。
悪くいえば、恋愛というのは愛情の中でもエゴイズム的な要素が入っているということだ。
恋愛って性欲なの?
で、結局、恋愛って性欲なのかどうか、答えが見つからないまま高校を卒業してしまった。
ただ、若い頃は
恋愛と性行為は別のものだ
とずっと思っていた。
うぶだった私は、大学生になっても恋愛ものが大好きでドラマや映画で涙したものだった。
でも、考えてみたら、そんな私だって、恋をしたら手をつなぎたくなるし、チューもしたくなるし、ハグもしたくなる。そしてその先も・・・。
だからやっぱり、性欲って恋愛の具体的行動にはちがいないと思う。
でも必ずしも「すべての性欲が恋愛である」とは言えないだろうとは思っている。
なかなか難しい問題だ。
結局、何も考えなくなっていった
しかし、いつしかそんなことも考えなくなっていった。
なまじそういうこと考えるから人生が複雑になっていくんだよね。
てな感じで、青春を終えた私は、いま、その問題に関しては全く考えなくなってしまった。
最後に
芥川龍之介「侏儒の言葉」の数々。なかなか考えさせられるものが多い。
そのうちの一つ、「恋愛」。
いつの間にか考えなくなってしまったが、また考えてみようかな。
たまには答えの出ないことを思考するのも楽しいよね!