ある仕合せ者
彼は誰よりも単純だった。
幸せってなんだろう?
むかし、明石家さんまさんが出演するコマーシャルで
しあわせーってなんだっけ、なんだっけ
っていうのがあった。
キッコーマンのコマーシャルだったと思う。
ちょっと調べてみたら1986年にこの歌が発売されたみたいだ。今から30年以上前のこの歌を、今でもおぼえているのは我ながらすごいと思う。
でも、それくらいのインパクトがあるコマーシャルだった。
なぜなら、軽いノリで歌っているものの「幸せとはなにか」という、ものすごい深遠なテーマを取り扱っているからだ。
では、幸せとはなんだろう?
これは、人生最大の課題といっていいのではないだろうか・・・。
芥川龍之介「侏儒の言葉」
今回とりあげた冒頭のことばは、芥川龍之介「侏儒の言葉」に記載されている言葉だ。
この作品は、芥川龍之介晩年の頃の作品で、1923年から1927年にかけて書かれたもの。以前もこのブログで取り上げたことがある。
(参考記事:「恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである」という芥川龍之介のことば )
「侏儒の言葉」はいわゆるアフォリズムというもので、人生や物事の真理などを短くまとめた言葉がたくさん収録されている。
芥川龍之介といえば数々の短編作品が有名で、「蜘蛛の糸」・「鼻」・「羅生門」などが有名だ。
けっこう道徳的な作品が多いと思っていたのだが、最晩年はちょっと作風が変わっていったのだろう。
この作品の中には物事について考えさせられる文章がたくさんある。
たとえば「結婚」というタイトルがついたこの文。
結婚は性欲を調節することには有効である。が、恋愛を調節することには有効ではない。
結婚について深く考えさせらる文章だ。
「天才」というタイトルの文章もある。
天才とは僅かに我々と一歩隔てたもののことである。ただこの一歩を理解するためには百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
正直、どれもが納得できるわけではないのだが、ときに自分の完成にピーンと引っかかるものが出てくる。
そして深く考えさせられる。それが「侏儒の言葉」のおもしろさだ。
「ある仕合せ者」について
もう一度冒頭の「ある仕合せ者」を引用したい。
彼は誰よりも単純だった。
本当に短い一文だ。でも、この一文は私に深く突き刺さった。
「幸せ」とは何なのか、どういう状態をいうのか。
それは人によってちがうし、また時代によってもちがってきただろう。
お金をたくさん持っていれば幸せだという人もいれば、権力を手に入れれば幸せという人もいる。
あるいは名誉を得れば幸せかもしれない。
平凡な生活ができたら幸せという人もいるだろう。
絶対的な幸せの正解は存在しないはずだ。
ちなみにウィキペディアでは「幸せ」を「幸福」と同じ意味に扱っていて
心が満ち足りていること
としている。
振り返ってみて、私が幸せと感じたときはどんなときだったかな?
- おいしいものを食べたとき
- お酒を飲みながら、いい曲を聞いたとき
- 好きな人と一緒にいたとき
- 旅行にいっていい景色を見たとき
たぶん、こんな感じだったと思う。
あと、なにか難しいことをやっていて、達成したときは多分幸せを感じたと思う。
おそらく心が満ち足りていたんだろうなぁ。
ただ、この「心が満ち足りているとき」、その心はシンプルであるはずだ。
単純に、おいしいものを食べて満足し、
単純に、いいお酒を飲んで満足し、
単純に、好きな人といて満足し、
単純に、きれいな景色を見て満足する、
そんな状態だったはずだ。
つまり芥川がいうように、私はこのとき
誰よりも単純だった
のだ。
幸せなときに、いちいち他のことなんて考えてられない。
おいしいものを食べてるときや、好きな人といるときに、明日のことなんて考えていたら、幸せなんて思えない。
「明日もこんなおいしいもの食べられるかな?」
とか、好きな人といて
「明日も、一緒にいられるかななぁ」
なんて考えたとたん幸せではなくなるのだ。
幸せになるには、誰よりも単純になることが必要なのだ。
物事を複雑に考える癖がある人は、もっとシンプルに考えたほうがよい。
そもそも、いろいろ余計なことを考えるようになったのが人間「の不幸の始まりだろう。
幸せに生きるにはシンプルに考えるに尽きる!!!
きっとそうにちがいない。
最後に
どんな状態であることが、幸せな状態かなんてよくわからない。
ただ言えるのは、物事を複雑に考えすぎたら幸せはやってこないということだ。
ただ、いまやっていることを楽しんで、いろいろ味わって、シンプルに感じていけば自ずと幸せになるんじゃないかなぁと思う。
私は考えすぎる傾向にあるから、これを機に、なおしていこうと思う。