太陽も死もじっと見つめることはできない(ラ・ロシュフコー)について

先日、職場の先輩が亡くなった。

いまの職場に来てもうすぐ10年になるが、先輩はすでにそこで働いていて、いろいろお世話になった。

先輩は亡くなる前日も働いていたので、誰もが彼の死など考えてもいなかっただろう。

私も先輩とは仲がいいほうだったので、よく話をしていた。

正直、いまでもこの世からいなくなったことが信じられない。

あらためて人の死亡率は100%であることを実感させてくれた。

 

そして、私はこのことばを思い出した。

太陽も死もじっと見つめることはできない。

ラ・ロシュフコーのことばだ。

今回は、このことばについて思ったことを述べていきたい。

 

 

ラ・ロシュフコーについて

 

ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世。

1613年生まれ。

モラリスト文学者。

フランスの貴族だったが、政争に敗れ隠退。

その後、サロンで活動し「箴言集」を執筆。

 

日本語訳された「箴言集」がいくつか出版されている。

齋藤磯雄訳「ラ・ロシュフコオ箴言録」三笠書房1936年)

内藤濯訳「ラ・ロシュフコオ箴言集」白水社1939年)

関根秀雄訳「ラ・ロシュフコー格言集」東洋経済新報社1967年)

二宮フサ訳「ラ・ロシュフコー箴言集」岩波文庫1989年)

吉川浩訳「運と気まぐれに支配される人たち ラ・ロシュフコー箴言集」(角川文庫1999年)

武藤剛史訳「ラ・ロシュフコー箴言集」講談社学術文庫2019年7月)

 

ちなみに冒頭のロフシュコーのことばは岩波文庫版から引用したものである。

ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫)

ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫)

 

 

「太陽も死もじっと見つめることはできない。」について

 

このことばの本当の意味については、正直言ってわからない。そこにロフシュコーはどんな意味を込めたのか、何を言いたかったのか、調べてもいない。

きちんと調べれば、もしかしたら真意がわかるのかもしれないが、今回はそれを割愛し、私が思ったことだけを述べてみたいと思う。

 

さて、ことばの意味は簡単だ。

太陽も死もじっと見つめることはできない

空を見上げて太陽を見つめようとしてもまぶしすぎて、じっと見つめることはできない。これは当たり前のことだ。

そして、ロフシュコーは「死」についても同じなのだと言っている。

「死」をじっとみつめることはできない。

どういうことなのだろうか。

 

ふと、私は思い出した。人が「死」について語ると「縁起でもない」ということを。

人はなんとなく、自分の死について語ることを嫌う。身内が死について語ろうとすると、そこは避けようとする。

たとえば、私が死について語ろうとしたら、「やめてよ」と言われるだろう。

以前、「オレは70歳まで生きるのを目標とするよ」と言ったら、まわりの人から「もっと生きるよ」と言われた。

たぶん私が70歳になって「おれは75歳まで生きるよ」と言ったら、同じように「もっと生きるよ、そんなこと言わないでよ」と言われるにちがいない。

それくらい、「死」という現実を想像することを人は避けているような気がする。

「いま」を生きている自分は「死ぬこと」を想像するのを避けているのではないか、そんな気がする。

多くの人が、自分の死を「じっと見つめることができない」のだ。

 

現在、日本人男性の平均寿命は81歳くらいだそうだ。

だから私は「80歳で死ぬ」ということを目標としたい。

これは裏を返すと「80歳まで生きる」という意味だ。

人生のゴールは死ぬことだ。どんなにいい生き方をしようと、悪い生き方をしようと、死ぬときは死ぬ。

私は、自分の「死」をじっと見つめようと思う。

自分が死ぬときのことをしっかり考えて、人生設計を考えていこうと思う。

本来ならば自分が何歳で死ぬかなどわからない。実は明日死ぬかもしれないのだ。

わからないからと言って、死ぬときのことを考えないのはおかしい。

もっとわかいうちから自分の最期を考えておくべきだ。

「死にたくない」と多くの人が思うだろう。でも実際に人は死ぬ。

私は自分が「死ぬもの」として生きていこうと思う。

 

最後に

 

どれだけ自分の死について考えられるかわからない。

だが、必ず私は死ぬ。

そのことを忘れてはいけない。

そして、おそらく人生はあっという間だ。もう一分一秒も無駄にはできない。

亡くなった先輩の分も私はがんばろうと思う。