ある日「ドラッカー名言集 仕事の哲学」を読んでいたらこんなことが書いてあった。
私が一三歳のとき、宗教の先生が生徒一人ひとりに「何によって人に憶えられたいかね」と聞いた。誰も答えられなかった。
「何によって人に憶えられたいか?」
そんな問いをいまだかつてされたことがない。
そして、私はいったい何によって人に憶えられたいのか?
この話には続きがある。
先生は笑いながらこう言った。「いま答えられるとは思わない。でも、五〇歳になって答えられないと問題だよ。人生を無駄に過ごしたことになるからね」。
・・・。
問題だよ、これ。大人の私はこの問いに対して明確に答えられないではないか!
そこで、いまさらなんだが、私はこの問いに考えてみたいと思う。
私の人生を変えた人(一人目)
ちょっと視点を変えて、私が影響を受けた人の話をしようと思う。
実は、私は高校のときに、国語の先生になりたかった。
なぜならば、高校3年生のときの現代国語の先生に大きな影響を受けたからだ。
義務教育9年間、勉強などキライでキライで仕方なかった。中学3年生になっても受験勉強もロクにしなかった。
それは高校に入っても同じで、高校2年生が終わるときまでまともに勉強もしなかった。
ところが、3年生になって、登場した国語の先生は今までの先生とは全くちがう先生だった。
単純に語句の説明や作者の言いたいことを説明するのではなく、しっかりとそのときの時代背景や作者の境遇を踏まえたうえで、そのときの作者がどんな気持ちだったかをみんなに問うものだった。
文学に唯一の正解などはないんだなぁということをその先生の授業のもとで実感したし、国語が本当に好きになったのであった。
そして、この先生の影響を受け、私も国語の先生になりたくなり、大学受験のための勉強をまじめにするようになったのだった。
この人は、私の人生を変えた人と言ってよいだろう。
私の人生を変えた人(二人目)
大学受験に合格し、はれて大学生になった私。しかし、もともとの性格は変えられないもので、私はダラダラと大学生活を送っていた。
国語の先生になるために大学に進学したというのに、まったく勉強をせず、バイトと遊びに明け暮れる毎日を送っていたのだった。
なんとか落第を免れ、大学3年生になった私は、万葉集を研究するゼミに所属することになった。
万葉集が好きで入ったわけではない。入りたいゼミに入れなかったのだ。しかたなく私は万葉集を研究する羽目になる。
ゼミの先生はこわいし、厳しいし、特に楽しいわけではなかった。
ゼミでは毎週一人ずつ、自分の研究してる分野について発表するわけだが、毎週のように先生の怒りを招いてしまうような授業だった。
そしてとうとう私の順番になり、私は怒られないように必死に知らべてレジュメを作成し発表した。たぶん、このときの私は誰よりも勉強しただろう。よほど怒られたくなかったにちがいない。
どこで怒られるかビクビクしながら発表を続けたが、意外なことに全く怒られることなく、しっかりと調べたことについてほめてくれた。
私自身もしっかり勉強したおかげで、万葉集の知識がかなりインプットできて、その後の授業も楽しみになった。
先生の厳しい授業も、研究に対する厳しい姿勢も、すべて楽しくなってしまった。
その後、私は万葉集で卒業論文を書き、大学院に進学することになる。
ゼミの先生のように、大学で万葉集を研究し、研究に一生を捧げたくなったわけだ。
おかげで、私は大学院に進学することになってしまった。
このゼミの先生も、私の人生を変えた一人ということになる。
私は二人を恩師として憶えている
私は大学を学部生として4年間、大学院生として5年間、合計9年間も過ごした。
ところが、国語の先生になっていなし、大学で研究もしていない。
あの9年間を、自分の人生の1mmも活かしていないのが現状だ。
ただ、私は大学院を出て、10年以上、学習塾で国語の先生をしていたので多少は目指すものになれたのかもしれない。
そして、いまでも文学というものに触れることが多いし、万葉集に関する本も読んだりする。
振り返ってみると、私は上記の二人を国語の師匠、万葉集の師匠として、憶えていたことになる。
ところで、私は、この二人のように誰かに憶えられているだろうか・・・。
私は何によって人に憶えられたいか
今の私はブロガーである。
「みっちー日記(enjoy編)」を週に2,3回更新するブロガーである。
ただ、「みっちー日記」がたくさんの人に読まれているとはお世辞にも言えない。
私はまだまだ弱小ブロガーなのだ。
そこで、私は、ここから始めようと思う。
そう。私は、私の書くブログによって人に憶えられたい。
ブロガーとして多くの人に記憶されたい。
そして、それが私の成長にもつながると思う。
なぜなら、ドラッカーはこのようにも言っているからだ。
今日でも私は「何によって人に憶えられたいか」を自らに問い続ける。これは自らの成長を促す問いである。なぜならば、自らを異なる人物、そうなりうる人物として見るように仕向けてくれるからである。
「何によって人に憶えられたいか」という自分への問いは、自分自身の成長を促す問いなのだ。
私が「みっちー日記」を執筆するブロガーとして憶えられたいと思うことが、私自身を成長に導いてくれるはず。
私のこのことを忘れないようにしたい。