「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」を読んだときの私の気持ち

教科書か問題集か忘れてしまったが、この若山牧水の短歌がけっこう登場するので自然におぼえてしまった。

 

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 

この短歌、なぜか私の心に入り込んでくる。

数々の名歌の中でも若山牧水の短歌は特に私の心に響くのだ。

 

今回は、この短歌をとりあげて、私の気持ちを述べてみたいと思う。よろしくおねがいします。

 

 

「幾山河・・・」の短歌の意味

 

幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく

 

そんなに難解な語句はないので、意味はとりやすい。

 

幾山河・・・いくつもの山や川

 

越えさり行かば・・・「越える」+「去る」+「行く」なので「越え去っていく」という意味になるが、ここは単純に「越えていけば」でよい。

 

寂しさの終てなむ国ぞ・・・「終て」は「終わる」、「なむ」は「~だろう」、「ぞ」は疑問。直訳すると「終わるだろう国か」みたいに変な訳になるが、ここは「寂しさが果てる国にたどり着くだろうか」という感じでよいだろう。

 

全体としてはこうなる。

 

いくつの山や川を越えていけば、寂しさが果てる国にたどり着けるだろうか・・・。今日も(そう思いながら)旅に出ていく・・・。

 

 強いていえば「寂しさが果てる」というところを「寂しさがなくなる」としたほうがわかりやすいかな。

 

 

「幾山河・・・」について思うこと 

 

この短歌の作者は若山牧水

彼は旅と酒を愛した歌人ということで有名だ。

 

正直、若山牧水がどういう気持ちでこの歌を詠んだかはわからない。

一説によるとこの頃、叶わぬ恋をしていたという話もある。

 

が、どういう状況だったにせよ、牧水の心の中に寂しさが棲みついていたことはまちがいない。

 

山を行き、川を渡り、いくら前に進んでも寂しさはつのるばかり。

ひとりで歩いていると寂しさはさらに増す。

 

どれくらい前に進んだら寂しさがなくなるというのだろうか。

寂しさが消えてしまう国にたどり着くだろうか・・・。

 

ずっと消えない寂しさを抱え、牧水は旅を続けるのであった。

 

とてもつらかったんだろうなぁ・・・。

 

 

私はこの短歌を読んだときに確信した。

人間の心の根源には寂しさがある

と。

 

人が人を求めるのは寂しさゆえのことだ。

人が孤独を恐れるのも寂しいのがいやだからだ。

 

世の中には孤独を愛する人がいるかもしれない。

一人のほうが気楽な人がいるかもしれない。

 

しかしそういう人は少数派で、ほとんどの人が寂しさを心に抱えるのはいやなはず。

 

だから人は人といたがる。

一緒にいることができなくても、何かでつながっていたがる。

 

それはサークルやグループかもしれない。

いや、物理的に一緒にいなくてもSNSでつながっていることもできる。

 

そうやって寂しさを回避している人は多い。

 

ただ、私は、どうやっても寂しさを回避できないでいる。

誰かと会っていても、誰かとSNSで関わっていても、私は結局独りだから。

 

よく人生は旅に喩えられるけれど、この人生という旅において、寂しさがなくなる地点があるのだろうか。

 

いや、けっして寂しい気持ちが消えることはないだろう。

 

それでも人生という旅は続いていく。

人生という旅は結局、死ぬまでつらいものなのかもしれない・・・。

 

なんとかこの寂しさがなくなっていけばいいんだけどなぁ。

そんなときが来るのでしょうか???