先日まで読んでいた本
これは著者の瀧本哲史さんが東大で講義したものを書籍したもので、若者向けに書かれたものだ。
私のようないい歳をした大人が読むようなものではない・・・、と思ったら大間違いで、これを読むことで、新しい考え方を学んだ。
その一つとして、学問や学びというものは「新しい視点」を手に入れるというのがある。
今回は、そのことについて書いていきたい。
「学問」や「学び」とは答えを知ることではない
瀧本哲史さんはこのように述べている。
学問や学びというのは、答えを知ることではけっしてなくて、先人たちの思考や研究を通して、「新しい視点」を手に入れることです。
ようするに、正解を得ることが学問や学びの本質ではないということである。
子どもの頃からたくさん勉強した。九九をおぼえたり、漢字を何度もノートに書いたりした。そして、それを学びだと思っていた。
子どもの頃はそれでいい。それは、学ぶための準備段階だったからだ。
だが、本当の学びというのは、唯一の正解を求めることではない。
なぜなら、物事すべてに正解があるわけではないからだ。
仕事のしかたに正解などないし、人の生き方に正解などない。女子と出会う方法にも正解などない。
難しいものほど正解となるものはない。
生きていれば、正解のない問題にたくさんぶち当たる。その問題をどのように解決していくか、その解決する方法を見つけ出す下地をつくるために、一生懸命学ぶのだ。
われわれが小さい頃から学んできたのは、正解をおぼえるためではないのだ。
「教養の役割」は「他の見方・考え方」があり得ることを示すこと
アラン・ブルームという哲学者は、教養についてこのように述べているらしい。
教養の役割とは、他の見方・考え方があり得ることを示すことである。
たくさんモノを知っている人に、教養がある人だなぁと評価してしまう。
例えば、読書が好きで、夏目漱石ばかり読んでいる人などすごいなぁと思ってしまう。
数学が得意な人、歴史が得意な人、人それぞれ得意分野があってそればかり勉強しがちだ。
だが、そういう偏った分野だけ勉強していても、実生活ではあまり役に立たないようだ。
瀧本哲史さんはこう言う。
一見いますぐに役に立ちそうにないこと、目の前のテーマとは無関係に見えることが、じつは物事を考えるときの「参照の枠組み」として、非常に重要なんですよ
すなわち、文学が得意だからといって文学だけ勉強していてもダメで、それとは別の分野の学問もしておく必要がある。
そうすると、何か問題が起きたときやアイデアを出さなきゃいけないとき、いろんな分野で学んだことが「参照の枠組み」になるわけだ。
文学しか学んだことがない人は、参照の枠組みが文学だけなのだが、文学と経済学と社会学を学んだ人は、参照の枠組みが3分野に広がる。
あっちとこっちをつなぎあわせて一つのアイデアができあがるのである。
人の考え方ばかりに頼るのはやめよう
考えるというのはラクなようで難しい。
仕事では仕事のマニュアルを、人生では人生のマニュアルを、人間関係については人間関係のマニュアルを探してしまう。
どこかに正解があって、その正解どおりに歩もうとする。それがラクな生き方だ。
しかし、それでは人の敷いたレールを歩むことになってしまう。果たしてそれでいいのだろうか・・・。
例えば、塾に行っていい高校に合格し、いい大学に合格し、そしていい会社に入るという生き方。これはある意味日本人の既定路線になっている。
大学生の後半になるとたくさんの会社にエントリーして、いっせいにリクルートスーツを来て就職活動をするというのも既定路線だ。
最近は少し崩れてきたが、結婚もそう。適齢期になったら結婚して、しばらくしたら子どもつくっていい家庭を築く。これも決まった生き方だ。
みんな人生のマニュアルどおりに生きている。ある意味それが常識だから。
果たして、みんな自分の人生について考えているのだろうか?
みんな、人と同じ考え方を歩んでいるにすぎないと私は思っている。それは、いままで真の意味で学んでこなかったからだろう。
もっと、自分の頭で考えて生きていきたいと、私は思っている。
最後に
なんだかとりとめもない話になってしまった。
結局私が言いたかったのは、自分の頭で考えるということだ。
学問をして、新しい視点を手に入れて、自分の頭で考えて生きていく、それが楽しい生き方だと思う。
もう、私はいい年齢になってしまったが、まだまだ学び足りない。もっとたくさんのことを学んで、それを参照の枠組みにして、いろんなことを考えていきたいと思う。