ある仕合せ者
彼は誰よりも単純だった
幸せってなんだろう?
むかし、明石家さんまさんが、コマーシャルで
しあわせーってなんだっけ、なんだっけ
と歌っていた。
今から30年以上前の歌なのに、今でも耳に残っているくらい印象的な歌だ。
あんな軽いノリで「幸せとななにか」という深遠なテーマを歌ってしまうとは、明石家さんまという人はすごいなぁと思う。
それでは、幸せってなんだろう?
たぶん、人生最大の課題っていっても過言ではない。
★★★
今回とりあげた冒頭のことばは、芥川龍之介「侏儒の言葉」に記載されている。
「侏儒の言葉」はいわゆるアフォリズムといわれるもので、人生の物事の真理などを短くまとめた言葉がたくさん収録されている。
書かれたのは晩年の頃で、1923年から1927年にかけての作品だ。
芥川龍之介といえば数々の短編作品が有名で、「蜘蛛の糸」・「鼻」・「羅生門」などは誰でも知っているだろう。
けっこう道徳的な作品が多いと思っていたのだが、晩年はちょっと作風が変わったのかもしれない。
さて、この作品の中にはいろいろ考えさせられる言葉が随所に見られる。
たとえば「結婚」というタイトルがついた文。
結婚は性欲を調整することには有効である。
が、恋愛を調節することには有効ではない。
結婚というものについて深く考えさせられる文章だ。
また、「天才」というタイトルの文もある。
天才とは僅かに我々と一歩隔てたもののことである。ただこの一歩を理解するためには百里の半ばを九十九里とする超数学を知らなければならぬ。
すべてが納得できるわけはないのだが、ときに自分の感性にピーンと引っかかるものが出てくるときもある。そしてそのことについて深く考えてしまう。
これが「侏儒の言葉」のおもしろさかもしれない。
★★★
彼は誰よりも単純だった。
ある仕合せ者について書かれたとても短い一文だが、この言葉は私の心に深く突き刺さった。
「幸せ」とは何なのか、どういう状態をいうのか。
それは人によってちがうし、時代によってもちがうだろう。
金がたくさんあれば幸せだという人もいるだろうし、権力を手に入れれば幸せだという人もいるだろう。
あるいは、名誉を得れば幸せだという人もいるかもしれない。
やはり、「これだ」という幸せの定義など存在しないと思う。
ちなみにウィキペディアには
心が満ち足りていること
とある。
振り返ってみて、私が幸せと感じたときはどんなときだったろうか。
おいしいものを食べたとき
お酒を飲みながら、いい音楽を聴いたとき
好きな人と一緒にいたとき
旅行にいっていい景色を見たとき
難しいことを成し遂げたとき
たぶん、こんなときに幸せを感じたと思う。
そういうときって、きっと心が満ち足りていたんだろう。
ただ、この「心が満ち足りている」状態のとき、その心はシンプルだったはずだ。
単純に、おいしいものを食べて満足し、
単純に、いい酒を飲んで満足し、
単純に、好きな人といて満足し、
単純に、きれいな景色を見て満足する、
そんな状態だったはずだ。
つまり、芥川龍之介がいうように、私はこのとき
誰よりも単純だった
のだ。
幸せなときに、いちいち他のことなんて考えていられない。
おいしいものを食べているときや、好きな人といるときに、明日のことなんて考えていたら幸せなんて思えない。
「明日もこんなおいしいものを食べられるかな?」
「明日も好きな人と一緒にいられるかな?」
などと考えたとたん幸せではなくなるのだ。
幸せになるには、誰よりも単純になる必要がある。
物事を複雑に考えていたら幸せはやってこないのだ。
そもそも、いろいろ余計なことを考えるようになったのが、人間の不幸の始まりなのかもしれない。
幸せに生きるためにはシンプルに考えるに尽きる!
きっとそうだ。
芥川龍之介のこのことばは、幸せとはどんな状態なのか、私にヒントを与えてくれたのだ。