吉野弘っていう詩人がいて、教科書なんかに詩が載っかっていたりする。
「奈々子に」とか「虹の足」とかが有名な詩なのかな。
それで数年前に吉野弘の詩集を買って読んでみたんだが、これがなかなかよい。ひとつひとつ考えさせられるものが多い。
最近、ちょっと考えさせられたのが「過」という詩である。
過
日々を過ごす
日々を過つ
二つは
一つことか
生きることは
そのまま過ちであるかもしれない日々
「いかが、お過ごしですか」と
はがきの初めに書いて
落ちつかない気分になる
「あなたどんな過ちをしていますか」と
問い合わせでもするようでーーー
(「生命は 吉野弘詩集」より引用)
この詩を読んだときにハッとさせられた。
「過」という文字の意味には、「過ぎる」とか「過ごす」というふうに時間の経過をあらわすものがある。
そして「過」という字を使う場合は、その意味を使う場合が多い。「過去」という熟語は時間の経過を表している。
そういえば「通過」という熟語もあるから、時間だけでく場所の移動を表す意味も「過」にはあるのだろう。
ところが詩人がいうとおり、「過」には「過ち」すなわち「あやまち」という意味もある。「過失」という熟語なんかは「あやまち」という意味が含まれているんだろう。
いずれにしても「過」には「過ぎる・過ごす」という意味と「過ち」の二通りの意味があるわけだ。
詩人は「過」という字に対して
日々を過ごす
日々を過つ
二つは
一つことか
という。
「過ごす」と「過つ」、これはほとんど同じ意味なのか・・・。
生きることは
そのまま過ちであるかもしれない日々
生きることは過ち、そう言われると生きることにネガティブなイメージを抱いてしまう。
しかし、それは人生を送っていくうえでの人間の宿命なのかもしれない。
人が一人生きていくと、必ず誰かに迷惑をかけるものなのだ。
生まれたときから、人は人の世話になる。お母さんやお父さんの大切な時間を奪い、ごはんを食べさせてもらったり、おむつを替えてもらったりする。
夜中に大泣きして両親を寝かせないこともあるだろう。
人は生まれてからずっと親に迷惑をかけっぱなしだ。
だから生まれること自体が過ちだったのか・・・。
いや、ちょっと考えすぎかもしれない。
ただ、たとえそうでなかったとしても、人生は過ちの連続だ。
日々、たくさんの失敗をおかす。
宿題を忘れたり、約束を破ったり、怠けてしまったり、喧嘩したり、途中でやめてしまったり・・・
過ちのない生活など想像できない。
人生を振り返ってみてもあやまちは多かった。
中学3年生の夏休み、40日間ほどあったが、その中で勉強した時間はおそらくトータルで1時間くらいだ。ほぼ毎日遊んでいた。
夏休みの宿題を最終日にやり始めたが、終わらなかったのであきらめた記憶がある。
遊びすぎがたたって、高校は希望していたところなど受験できない状態だった。
高校は部活ばかりがんばって、大学進学も危なかった。なんとか大学に合格するものの、学校にロクにいかず、バイトにあけくれていた。
大学生活の後半に、ちょっと目ざめて大学院進学を希望したら運よく合格。私は晴れて大学院生になった。その選択もいまでは過ちだったような気がする。
大学院生の頃、アルバイトしていた学習塾にそのまま就職して正社員になった。その学習塾は最悪な会社だったので、その選択も過ちだったと言える。
転職して、いまは別の会社に勤めているが、やりがいのある仕事とはいえない。
もう、こうやって書くと、すべてが過ちのように思えてくる。
結論をいえば、人生は過ちの連続ってことなのだろう。まちがえるのが人生なのだ。
だからそはそれで仕方がない。
「過ちをしない」ことをあきらめよう。過ちをおかすのが人生だから。
それはそれでいいじゃないか!
そんな気がする。
大切なのは、過ちをおかしてしまって、そのあとどうするかだ。
過ってそのつど後悔していてもつまらない人生しか送れないから。
詩人は
生きることは
そのまま過ちであるかもしれない日々
「いかが、お過ごしですか」と
はがきの初めに書いて
落ちつかない気分になる
「あなたどんな過ちをしていますか」と
問い合わせでもするようでーーー
と書いているが、このとき詩人はユーモラスな気分で言葉遊びを楽しんでいたことだろう。
私もたまにはユーモラスな気分で、自分自身に「どんな過ちをしていますか?」と問いかけてみたい。
そして、笑いながら自分の過ちを話してみようと思う。