「生命は」(吉野弘)を読んで、自分の存在について考えた

若い頃、人生の目的についてずっと考えていたことがあった。

自分はなんのために生きているのだろうか、そして命とは何かと。

生きる意味ってあるのかなぁと真剣に悩んだこともあった。

 

そんな私だから、このまま死んでもいいのではないかと思っていた時期もあった。

水のように蒸発して消えたい、それが私の理想の死に方でもあったのだ。

 

考えてみれば、若い頃のわたしはネガティブだった。人生とか生命とか深く考えすぎていたのかもしれない。

 

そんな時期を経て、あの頃の気持ちをほんのり胸に残していたあるとき、吉野弘「生命は」という詩に出会うことになる。この詩を読んで、私は「生命」について考え方が変わったのであった。

今回は、この詩について述べていこうと思う。

 

「生命は」という詩

 

生命は

 

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分

他者との総和

しかし

互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

 

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

 

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

 

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

 

作者は吉野弘「奈々子に」とか「虹の足」が有名で、教科書に採用されている詩もある。

私はけっこう彼の詩が好きで、詩集を何度も読んだし、かつてブログでも取り上げた。

「過」という詩もけっこうおもしろいので、ぜひ読んでもらいたいと思う。

 

さて、「生命は」という詩、これを読んだとき、ありきたりな表現だが、私はハッとさせられた。

生命ってそういうことだったの!!!

世界ってそうなっていのか!!!

なんだか、ひらめきを得た感じだった。

 

この詩を、無理を承知でひと言で説明すると、「人は一人ではない」ということになる。

人は一人では生きていけない。生まれてすぐに親の助けを借りて生きていき、大きくなってもまわりの人に支えられて生きていく。

ひとり暮らしで、誰の世話にもなっていないという人であろうと、食事をすれば、その材料は誰かがつくったものだし、売っている人がいるから買うこともできるのだ。

自分以外の誰かがいるから、癒やされるし、勇気づけられるし、学びを得たりもする。

なによりも、他の人がいるから自分の存在を確認できるのである。

やっぱり人は一人ではないのだ!

 

「生命は」の内容と思ったこと

 

生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

生命が「自分自身で完結できない」とはどういうことだろうか?

私の生命は私のものだし、他人の生命は他人のもの、そう思っていた。

ところが詩人はそれを否定する。

 

そして、次の部分で、それがなんのことかわかってくる。

 

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする 

花は、めしべとおしべがあって完全体...ではない。

そこに虫が飛んできたり、風が吹いたりして、花粉を飛ばし実を結ぶ。

めしべとおしべがあるだけでは実を結ぶことができないのだ。

 

だからこう結論づけることができる。

 

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

生命は、その中に足りないものがある。

足りないものを満たすのは他者だ。

 

花は、自分自身で花粉を運ぶことができず、他者に助けてもらう。

花が欠如してるものを、虫や風が満たしてくれるわけだ。

 

だから

世界は多分

他者との総和

なのである。

 

私は世界の一部だ。

私以外の人も世界の一部だ。

そんな、私や他の人々がみんな合わさって世界になる。

世界とはそういうものなのだ。

 

だから、「生命」は自分自身で完結できない。

 

私自身、これまで、どうしようもなく「ひとり」を感じることがあった。

生きていてもむなしいこともあった。

なんのために生きているのか存在理由を疑うこともあった。

自分なんか誰の役にも立ってないし、何にも貢献できていないことを強く恥じていたこともあった。

 

しかし、この詩の最後の部分が私にはとても励みになる。

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

 

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

 

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

もしかしたら、私も「あるとき 誰かのための虻だった」かもしれない。

または誰かのための「風だった」かもしれない。

虻や風が、花にとって必要なもの。それは花そのものに欠如しているものを満たす存在だから。

そのように、私という存在も、誰かに欠如している部分を満たす存在なのかもしれない。

知らず知らずのうちに、そんな存在になっている可能性もある。

 

本当のところがどうなのかわからないが、この詩を読んだときに、私はそんな存在になっているだろうと信じることにした。

 

なぜなら世界はきっと「他者との総和」であるにちがいないから。