「犬」(八木重吉)が、私にとって詩との出会いだった

わたしと詩の出会い、それは八木重吉だった。

 

高校生の頃、国語の授業で詩を書いた。

いや、書かされた。

 

どんな詩を書いたかは忘れたが、短い詩だった。

詩の書き方もわからぬまま、ただ思うままに書いた。

 

私の拙い詩を読んだ先生は一言、

八木重吉みたいな詩だなぁ」

と言ったのみ。

 

八木重吉!?!?!?

 

当時のわたしが、八木重吉の詩など読んだことなどあるはずもない。

ただ、そのとき「そういえば兄の本棚に八木重吉って人の本があったなぁ」と思い出した。

 

そこで、帰宅後、さっそく本棚から取りだし、詩集を読んでみることにした。

 

「なるほど、短い詩だなぁ」というのが第一印象。

平易なことばで、けっこうわかりやすかった。

詩集のページは、どんどんめくられていった。

 

しばらくすると、「犬」という詩に出会う。

それはこんな詩だ。

もじゃもじゃの犬が

桃子の

うんこを くってしまった

たった、これだけ。

 

え!?

うんこくったの?

なんでこれが詩?

詩ってきれいだったり、深かったりするものじゃないの?

 

この詩を読んだときの感想だ。

私は大きな衝撃を受けた。

 

翌日の国語の授業で、先生に八木重吉の詩を見せて質問した。

「先生!!! これって詩なの?」

 

先生は

「これが詩なんだよ」

と答えた。

 

「えーーーーー?????」

 

わたしは不思議なテンションの上昇を感じた。

なんでうんこを食ってるのに詩なんだよ!!!

八木重吉の詩は難解に思えた。

 

それからだ。わたしが詩を読むようになったのは。

詩の謎に挑むようにいろんな詩を読むようになったのだ。

 

あれから何十年もたって、いろんな詩を読んだ。

でも、この詩に関してはいまだに謎である。

 

どうして犬が桃子のうんこを食べてしまったのか。

いったい桃子はどこにうんこをしてしまったのか。

なぜ八木重吉がこの場面を詩にしたのか。

このときの八木重吉の気持ちは?

 

いまだに謎。

 

でも、このように考えることが詩の醍醐味にちがいない。

答えなど詩人しかわからない。

いや、書いた本人すらわかっていないこともあるだろう。

 

その気持を考えること、あるいは詩人になりきること、

それが詩を読む醍醐味だろう。

 

八木重吉のおかげで詩の楽しみを知った。

これまでたくさんの詩を読むようになったのは彼のおかげだ。

 

感謝だなぁ。

 

※「犬」は詩集「貧しき信徒」所収。青空文庫なので無料で読むことができます!