最近読んだ詩が、妙に心にひっかかって何度も読んでしまった。
作者は牟礼慶子さんというかたで、私が国語の先生をしていた頃に、この詩が問題として出題されていた。
そのときはどうやって生徒たちに理解させようかということばかり考えていたので、あんまり鑑賞できなかったような気がする。
でもあらためて読んでみたら、なんとも心に残る詩だった。
それは「見えない季節」という詩。
見えない季節
できるなら
日々のくらさを 土の中のくらさに
似せてはいけないでしょうか
地上は今
ひどく形而上学的な季節
花も紅葉もぬぎすてた
風景の枯淡をよしとする思想もありますが
ともあれ くらい土の中では
やがて来る華麗な祝祭のために
数かぎりないものたちが生きているのです
その上人間の知恵は
触れればくずれるチューリップの青い芽を
まだ見えないうちにさえ
春だともよぶことができるのです
まずは序盤の
日々のくらさを 土の中のくらさに
似せてはいけないでしょうか
で、何を言ってるんだろうか、と考えさせられる。
「日々のくらさ」というのは、もう多くの人がそんな気分を抱えているのではないか。
特に最近はコロナで、世の中が暗くなっている。会社でも業績があがらず、いろいろ引き締めをはかっているので、なにかと厳しくなる。
会社がそんな状態だから、まわりにもネガティブなことばが飛び交いだんだん自分の心も暗くなっていく。
正直、私はここ一ヶ月ほど、会社をやめたくてやめたくてしかたない。
だからこの「日々のくらさ」が目にとまったのだろうか?
そして、私が少しでも希望を持てたのは、この詩が日々のくらさを「土のくらさに似せてはいけないでしょうか」と言っているところだ。
地上は今
ひどく形而上学的な季節
というのがよくわからない。
形而上といったら形のないものをあらわすイメージで、形而上学は哲学がイメージされる。
地上がいま、まさにそれにあたると詩人は表現する。
ともかく想像するに、地上には冬でなにも明るいものがない状態。きびしい現実におおわれている姿を想像する。
だが、こう続く。
ともあれ くらい土の中では
やがて来る華麗な祝祭のために
数かぎりのないものたちが生きているのです
地面の下では、準備が始まっている。
やがて芽が出て、花が咲き、明るくなるために土の中では春が始まっているのだ。
だから詩人は「日々のくらさ」を「土のくらさ」に似せたいのだろう。
さらに
その上人間の知恵は
触れればくずれるチューリップの青い芽を
まだ見えないうちにさえ
春だとも未来だともよぶことができるのです
と続く。
人間の想像力というのはすごくて、見えない未来を見据えることができる。希望という目を持って。
いまは全然何もできていなくても、夢や希望という気持ちを心に持つことができるわけである。
だからこそ、いまは暗いのかもしれないが、明るい未来が待っていると考えることができるのだ。
正直、いまの私は、どうしようもないくらいネガティブになっている。
でも、このこころの暗さをなんとか、土の中の暗さだと考え、夢や希望が内包している暗さだと考えていきたい。
あまりにもいま心が暗すぎて、うまくはかけないわけだが、この詩を何度も読んで、暗い気持ちから脱却しようと思う。