「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくごとし」:私の青春は片想いしかなかった

私の片想いの記憶、

それはまず、中学3年生にさかのぼる。

 

当時、好きだった女の子は私の親友が好きだった。

その親友は、スポーツが得意で明るく、モテるタイプの男の子。

勉強もスポーツもできない私が太刀打ちできるわけもない。

私の恋は当然、実らなかった。

 

高校生になってもその子のことを忘れられなかった。

私は、新しい恋をすることができなかった。

 

だが、大学生になって、またもや片想いをすることになる。

 

大学に入学してすぐ、私はある女の子と仲良くなった。

これはうまくいくぞ、と思ってたら、いつの間にか私の友達とつきあっていたのだった。

 

私の青春時代の片想いは、この2つだと思う。

 

片想いというのは苦しくもあり虚しくもある。

好きで好きでたまらないのに、向こうはそうでもないのだ。

 

気持ちの一方通行はなんとも言えない気分。

抑えられない感情を無理に抑えて、やりきれなくなる。

そんな毎日を過ごしていた。

 

片想いってホント無駄だ。

 

★★★

 

さて、今も昔も、人は片想いをしていたようだ。

日本最古の和歌集といわれている「万葉集」に数多くの恋の歌が収められている。

 

そのなかに、こんな歌がある。

相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼のしりへに 額づくごとし

作者は笠女郎という女性。

万葉集の編者といわれている大伴家持に彼女が贈った和歌だ。

 

「相思はぬ」は「お互いに思っていない」、つまり片想いをしているということ。

「大寺」は文字通り大きなお寺。

「餓鬼」は餓鬼像。釈迦像や弥勒菩薩像であれば拝んだらいいことがありそうだが、餓鬼像を拝んでもなにもいいことがない。

「しりへ」はうしろ。

「額づく」は額を地面につける、つまり拝むということ。

 

全体の意味は

片想いの相手をずっと想い続けることは、お寺にある何のご利益もない餓鬼像を(しかも)うしろからから拝むようなものだ

となる。

 

つまり、片想いというのはムダなこと。

そんなふうに笠女郎は言っているわけだ。

 

あきらめというか、投げやりというか、とにかく「ここまで言うか」って感じの和歌である。

 

★★★

 

でも、わかるなぁ。

片想いってなんだか投げやりになるんだよねぇ。

 

人を好きになると、客観的な判断ができなくなりがちだ。

可能性が少ないとわかっていても、残り僅かな可能性に希望を見出してしまう。

 

「待っていたら、振り向いてくれるかも」

「少しは好きになってくれたかも」

とか考えてしまう。

 

でも、やっぱり片想いは片想い。

無理だと悟ってしまうと、やりきれなくなる。

笠女郎もそんな気分だったのかなぁ。

 

この和歌を初めて読んだとき、妙に共感してしまった。

 

★★★

 

私はさえない男だった。

そのせいか、片想いの時間がとても長かった。

さっさと諦めて他の女の子を好きになったらラクだったのになぁ。

 

だから、片想いはしないに限る。

ダメだと思ったらさっさと諦めるのがよい。

 

とはいえ、きっと恋をしたらそうは思えないにちがいない。

ちょっとしたコミュニケーションで、たちまち恋に落ちてしまうだろう。

 

私はつくづくバカだ。

 

ダメだと思っても恋に落ちてしまい、挙げ句の果てには叶わぬ恋とわかっていても一人の女性に執着してしまう。

 

愚かだよね・・・

 

叶わぬ恋などしないほうがよい。

そのほうが絶対にラクだ。

 

★★★

 

片想いをしそうになったら笠女郎の和歌を思い出すのがよさそうだ。

相思はぬ 人を思ふは 大寺の 餓鬼のしりへに 額づくごとし

 

片想いをすることは、なんのご利益もない餓鬼像に拝むようなもの・・・

むしろマイナス(泣)

 

でも、やっぱり恋はしちゃうと思う。

好きって思う気持ちに逆らうことなどできないから。

 

叶うか叶わないかわからない恋をするからこそ、人生はおもしろい(ということにしとこう)。

 

だから私だって、そろそろ恋をしてみたいと思ったりする。